1 やさしい少女のたすけかた

空は快晴。日は南。けれど、舞台は森の中。陰りの森にせっかくの光は大幅に減退。
薄く木漏れ日射す森は、煌めく何条もの日光が編みこまれた天然の織物を紡ぎだしている。射し込む光に手をかざせば、その温かみが手のひらを伝わって体中をぽかぽかとさせる。新緑の青は深々と萌え、大地にはたくましく根をはった野草が自身の存在を主張していた。
そんな晩春の空気の中、少女は獣道をたったと弾んでいく。
やがて来る夏の太陽を感じさせる紅い東洋風のワンピースを身にまとい、切りそろえられていないやんちゃな癖っ毛の上に緑色の帽子をちょこんと乗せて。
年の頃は、十代に満たないか、やっと手が届いたくらいであろう。朱色に頬を染めた健康そうな丸い顔、くりくりっとした大きな瞳は、春眠をむさぼる者には、目を背けたくなるほど輝いていた。
 元気いっぱいで天真爛漫な顔つきはそれだけで目を見張るが、彼女には大きな身体的特徴が他にもあった。
帽子を挟んで左右の頭部から、大きな黒い耳が生えている。よく見ればお尻の部分からも黒い二本の尻尾が伸びていた。付け耳や付け尻尾というような類ではなく、それらは自然に備わっているものであった。

その少女の名前は―橙。
遠く忘れられたものたちが集うという幻想郷の守護者の式神の式神になったばかりで憑きたてほやほやな化猫である。

幻想郷、それは内に収束する世界である。外で不要となった、いやそうあって欲しい、と思い描きながら忘れていってしまったものが、少しずつ内側にたまり、やがてある空間にその想いが占めるようになった。そこでは、科学によって駆逐された魔術、観測によって否定された妖怪、時代に取り残された想い出が、外における常識を浸食し独自の世界を構築しているのだ。幻しに儚く、想いし想われる――ゆえに幻想郷、と。
 
したがって、ここでは常識が通じないのが常識であるとも言える。
化猫だから、猫耳が頭から生えており、尻尾があるのはなんら不思議ではない。ここ幻想郷では、これが普通なのだ。

彼女―橙は、森の道を進む。
特に何か用事があるわけではなかった。気が向くままに歩いて、何か面白いことがあればそれに首を突っ込もうという魂胆だ。
式神と言っても橙はまだまだ子どもで、特にこんな天気の良い日には、高まるワクワクを抑えきれず家を飛び出してきたというわけだ。

 変化に満ちた季節。夏にむけてありとあらゆる生命が、生まれ、芽吹き、育まれつつ、その身を刻一刻と変化させている。この時期ともなれば、どんな愚鈍な者も冬眠から目を覚まして、森の中を蠢いている。虫も鳥も獣も、木も草も花も、瑞々しく潤い、逞しい自然の姿を体現していた。

橙は、そんな森の風景に爛々と目を光らせて、今日は何をしようかと考えていた。すると、煌めく鱗粉を振りまく小さな人型の蝶々が、橙の目の先を通り過ぎた。
「あ、妖精さんだ!」
その妖精は、肩下まで流した緑の髪に、若葉をそのまま両面に繋ぎ合わせたような服を着ていた。羽ばたくたびに、これまた葉っぱのような翼から光を反射する粉、むしろ光そのものと言っても過言ではないものが、妖精が通った軌跡を描いて飛散する。その妖精は、森に住む樹木の妖精と思われた。
橙が闊歩しているのは森であるから、木精がいるのは別段珍しいことではない。ただ、目的もなくただ森を彷徨っていた橙にとっては渡りに船と言ったところではあった。
きっかけがあればよかったのだ。一人で遊ぶのもいいけれど、一緒に遊んでみようか、と橙は妖精の後を付いていく。
この場合、とにかく話しかけなくては少なくともお話は始まらないが、どうやって話を切り出したらいいのかわからない。無邪気で明るい橙ではあったが、意外にも人見知りをする性格であった。
うー、とか、むー、とか悩んではみても、なかなかのど元から言葉が出てこない。自分より小さな相手にあれこれ考えてしまう橙の様子は、対人経験(幻想郷に人などあまりいないのだけれど)の少なさを物語っているように見えた。
悶々とする橙のその様子に妖精は気付く様子もなくさっさと先へ行ってしまう。結局、なにも話しかけられないまま、橙は妖精についていくことになってしまった。

しばらくすると、二匹目の妖精が現れた。前を行く妖精に話しかけているが、橙は橙で飛び出すわけにも行かないのでその様子をそっと眺めていた。
興奮気味に話す二匹目の妖精に応えるように、一匹目の妖精も落ち着かない様子になり、二匹は一緒に飛んで行ってしまった。
「あぁ! 待って」
宙に投げた言葉は、妖精に届くことはなかった。せっかく声に出したのに、と無視されたことに橙は少なからず落胆した。したけれど、妖精の様子がどうにも気になった。何をあんなに騒いでいるのか、なまじその様子を見てしまっただけに、黙って帰るというつまらない選択肢は橙の心中にはなかった。あの興奮を分けて欲しい。そう思うや、橙は飛んで行ってしまった妖精たちを探すことに決めた。
今日の目的は決まった。それは一方的なかくれんぼだった。探すのはもちろん橙で、鬼の交代はない。ただ、とにかく早く見つければ、それだけ面白いことが起きるかもしれない。いったんやることが決まってしまうと、俄然やる気になってくるというものだ。
「よおし! 絶対見つけてやるんだから」
そう息巻いて、橙は深い森の中を駆けだした。

森は冬の停滞から解放され、鮮やかに色づいていた。生の胎動がそこらかしこに広がり、走る橙を出迎える。
ときどき橙は高く伸びた草の葉から顔をのぞかせ、妖精たちを探す。立ち止まってゆっくり見回すこともできたが、はやる気持ちが橙の足を先へと動かす。とにかく動いていないと落ち着かないのが本心であった。
探索を続けていると、ざわざわ物音が聞こえてきた。その音に引き寄せられて音の近くまで来てみると、五、六匹の妖精が集まっているのが見えた。
その中に、さきほどの二匹も混じっていた。
「見つけた! …けど何をしてるんだろう?」
何やら妖精たちが騒いでいる。一点を取り囲んで、その周りを浮足立って飛んでいた。ただし、周りを飛ぶだけで、一定以上の距離を常に保っていた。好奇心をそそられた橙は、しずしずと近づいて、それがよく見える位置までやってきた。
と、そこで、はっと足を止めた。
地面に黒いしみが点々と広がり、その延長線上に茶色い塊があった。時折、ぴくぴくと塊が奮え、丸い部分がためらいがちに膨らんだり縮んだりしていることから、それが生き物だということがわかる。

橙が見たものは、傷ついた子雀だった。
巣から落ちたか、黄色いくちばしの端々には血がにじみ、翼が在らぬ方向へ折れていた。焦点の定まらない子雀の目は、虚空を見上げて見開かれていた。

「…気持ち悪い」

ギクリとした。
耳にとどいたその声に橙は困惑した。独り言をいったつもりはなかったのに、ひどく自分の声に聞こえてならなかった。
「うわっ、なにあれ…グロ!」
「こんなもの見るんじゃなかったわ」
近づいては、それを見る度に嫌な顔をする妖精たちがいる。そのくせ、興味深げに,目を逸らしては見て、逸らしては見て、ずっとそこを離れない。
遠目から何があったとひそひそ話す妖精たちがいる。新しく来た妖精に、しきりに話しかけているが、実際何もわかっていないだろう。
周囲にいる妖精たちの反応は様々だったが、共通点が一つだけあった。誰も子雀に触れようともしなかったということだ。

生き物とは生々しい物である。だが、普段生きていてそれを自覚することはあまりないだろう。生き物が最も生々しくなるのは、逆説的になるが、死んでいるか、死につつあるかのどちらかである。光を当てられれば、瞳はその光を反射して艶めくが、決して自ら輝きを取り戻すことはない。瞬くことのない開け放しのその目玉は、とても生々しいものであると感じることができる。焼き魚の頭をまじまじと見つめて気持ちが良くなるなんてことがないように、それはやはり生理的に気持ちの悪いものなのだ。
 だから、妖精たちが眉をひそめて、不快感を顕わにするのは不思議なことではない。そして、その例に橙も漏れることはない。

気持ち悪い、それは橙の本心だったかもしれない。実際、あんなものを触りたいとは思わない。けれど死にかけとは言え、指をさされ、あれだのこれだの揶揄されて、その上気味悪がられているあの子雀が、可哀相に思えて堪らなかった。橙は意を決して、おそるおそる一歩を踏み出した。
遠くで話していた妖精が橙に視線を移すと、それにならって他の妖精も橙に注目し始めた。橙に比較的近かった妖精は、橙の頭の周りを飛びながら、一緒になって子雀に近づいていく。
近づけば近づくほどに、子雀の身体がよく見えて、見たくもないのに、傷口から目が離れないようになる。生々しい有様に、ひどく狼狽する様子を隠しきれなかった。手がふるふると震えるのを感じながら、橙はそっと手を伸ばした。
頭の中に心臓があるかのように、耳の奥で鼓動の高鳴りが重く音を立てる。ねっとりとした空気が肺に入り込み、橙は思わずむせそうになった。
呼吸で膨らんだ羽毛に指先が触れて、橙は驚いて手を離した。喉がからからに渇いて、汗が一筋顔を流れ落ちる。
もう一度と、ぐっと息をためて橙は再度手を伸ばす。指が触れて、ちょっと指が跳ねたが、おっかなびっくり指を子雀の身体に絡ませ、そのまま子雀を包みこむことができた。
「うぉっ触っちゃったよ、あの娘」
「えぇ〜有り得ないー」
野次馬をしていた妖精が、やかましく橙の頭上で叫んだ。橙は気にする風もなく、包んだ両手を開いてみる。
見るに堪えない子雀の姿がそこにあった。手の中に、濡れた血の感触がある。それがたまらなく気味が悪い。だが、同時に心臓の鼓動と呼吸が手のひらに響いた。
「あったかい」
弱々しいけれど、確かにまだ生きている。まだ、助かるかもしれない、そう思った。橙は丁寧に手を合わせて蓋にすると、立ち上がった。
「無理だよ、助からないよ」
「あきらめなよー」
口々に妖精たちが囁いてくるが、その言葉には答えない。
妖精たちの言っていることは、現実を見れば確かにそうかもしれない。眺めている分冷静に、あるいは冷酷に判断がつく。
けれど、触れたものにしか分からない感情が彼女たちにはない。一歩踏み込んで手を差し伸べた橙には、子雀が生きている感覚が嫌というほど刻まれてしまった。
だから、そう簡単に諦めることはできなかった。
残酷な言い方をすれば、自己満足であった。それは偽善に満ちた行為に過ぎない。何もしなかった自分に後悔しないように、何もできなかった自分を許すように、納得が行く行動が必要だった。
しかし、そんな気持ちも傍観者にしかならない妖精たちには分からない感情だった。
橙は無言で森を駆け抜けた。とにかく手当てをしなければ、とその思いが橙を駆り立てる。未熟な橙には治療は無理だが、家に帰れば藍がいる。藍さえ居てくれれば、何とかなる。
頼りになる強い藍の顔が浮かび、橙の顔にも希望が見える。
「大丈夫、きっと大丈夫だから…」
半ば自分に言い聞かせるように、子雀を励ましながら、橙は家路を急いだ。

森を抜けると、草原がある。穂をつけた頭をなびかせ、さらさらと囁くススキの草原。その声が何重にも折り重なってはいるが、むしろ野は静寂に揺れていた。
左右をススキに挟まれたあぜ道を少し進むと、一軒の屋敷がある。屋敷は視界を森に阻まれ、音を野に遮断されて、周囲から隔絶した場所に佇んでいた。
まるで、そこだけが抜け落ちたスキマのように、その家はそこにあった。
ただ、人はいるようだ。家の小窓からは、薄い煙が風に吹かれて消えていた。時刻はちょうどお昼時。家人が昼食の準備でもしているのだろうか。
白米のけぶる匂いに誘われて小窓を覗き見れば、台所に立つのは(正確にはかまどの前に屈んでいる)割烹着を着た少し大柄な女性。頭に二本の角がある帽子を被り、鼻歌を口ずさみながら料理をしている。その音に合わせて、女性の背丈より大きい九本の尻尾が拍を取っていた。
九尾の狐。とある国をその妖美を持って転覆させたという伝説の天狐も九本の尻尾を有していたという。しかし、彼女は漬物壺から取り出した胡瓜を包丁で規則正しく切りそろえている。かの伝説の妖怪とは似ても似つかないものであった。彼女が、その雌狐であるかの真偽はどうとして、彼女こそがこの屋敷の主人、八雲紫に仕える式神であり、そして、化猫、橙の実質的な保護者でもあった。

「藍様!」
ぴょこんと帽子の角が跳ねた。それは角ではなく、大きな大きな耳であった。
玄関の引き戸がぴしゃりと開き、同時に迫った声が聞こえた。
「お帰り。どうしたんだ、そんなに慌てて」
手を拭きながら、足早に玄関へ向かう。すると、息を荒上げ、汗でびしょ濡れの橙が見えた。
「その手…ん?」
橙は無言で手を藍の方に差し出した。藍が手の中を覗き込むと怪我をした子雀が震えていた。
手から橙へ視線を移すと、大粒の涙を眼の端にためて、藍をまっすぐ見ていた。
「助かるの?」
外傷は見たところ、翼の骨折。しかし、衝撃で内臓にも傷が及んでいることは見て取れた。そもそも翼が折れたひな鳥はもう、鳥としての大切な飛翔機能に重大な故障を抱えてしまうものだ。普通なら安楽死させてしまうのが賢明な判断と言える。しかし、
「私を誰だと思っている?」
「藍様です!」
「そう、私は完全無敵の藍様だ。大丈夫だよ、橙。この子は治してみせる。」

 ここは幻想郷、普通という言葉は意味を成しえない。ゆえに藍は、「助けてみせる」と高らかに宣言した。それは嘘偽りない明確な事実に他ならない。幻想郷の守護者の従者が、小鳥一匹助けられずして、式神を名乗れるはずもない。
 それをまた橙は理解している。だから橙は、「助かるのか」と藍に訊いたのだ。知っていてなお、口に出して安心させてもらいたかった。返って来た答えは、最初から分かっていたのだから。

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